あいかわらず雨が続いて、しょんぼりな日々でございます。
皆さまいかがお過ごしでしょう。

1日1章、9日間完成!という『差異と隔たり』再読のこころみは容易に打ち砕かれ。
とはいえ、ちょっとずつ読んでいます。

今日は第2部、第1章「他性の諸相」ですね。読んでおります。

といっても、別に何事かを論じるわけではないです。

ひとはいずれにせよ、みずからの身体の細部について、明示的にはほとんどなにも知ることがない。――このことは、しかもおそらく、顕在的な知によってそもそものりこえることが不可能なことがらである。たとえば、解剖学や医学にかんする詳細な知識が、いま現にはたらいているじぶんの身体についての非―知という次元を帳消しにするわけではない。どのような知が、身体をめぐってじじつ可能であるにしても、ひとはそうした知にもとづいて身体の細部を作動させることはできないからである。

町田康の「きれぎれ」の終わりを合わせて。

でも外見上、おれは、うまく歩いている。おれは外見上は普通に歩いているように見えているのだ。

本当に自分がうまく歩けているかなんて、ほんとうのところはわからない。あえてそういってみせるとき、ひとは自らの平常を疑っているにちがいない。おれは本当はうまく歩けていないかもしれない。でも、歩いている…いや、歩いていくんだっていう強がりを示す。

人は自分がいまどんな表情でいるかさえ知ることはできない。フィードバックされない情報をひたすら発信しながら突っ走る。<顔>が裸形であるとはそういうことだ。自分の本当の気持ちの表出は、外的な表現を通じてのみ現実化されるし、しかも、それは自分にはわからないんだ。だから誰かに教えてもらわないといけない。