現存在はそのつどじぶんの可能性なのであり、じぶんの可能性を目のまえにあるものとしてただ属性のようなかたちで「もっている」のではない。

「存在」はいつもそこにあるにもかかわらず、いつだってわたしたちのことばの上をすべっていってしまう。
なぜなら、わたしたちは存在しているから。

わたしは、あなたのことを見つめたり、あるいはあなたに呼び掛けたりすることができるけれど、あなたのことはわからない。わたしはわたしで、あなたはあなた。そして、いまのわたしは、たくさんあった可能性、わたしのありようのなかで、どういうわけか、いまあるわたしに過ぎない。

これがわたしの本当の姿?

本当のわたしかもしれないし、違うのかもしれない。

それは「存在」が決めることで、わたしたちの話題には上らない。