ふん。死にたいやつは死ね。俺は死なん。

Weezerの来日が待ちきれないこんな日々。楽しいですね。

「手はシャベルを使用するが、手がシャベルによって使われてもいるのである。一般に、身体が道具を使用するとき、身体は道具にとっての道具になっている。身体は道具となるまえに、みずから道具を使用する。そのことをかいして、身体じしんが道具となるといってよい。」

貨幣論みたいな一節。

人文。

およそ倫理が可能であるとするならば、ひとはあらかじめ〈他者への関係〉のうちに存在していなければならない。(『差異と隔たり』v)

ひとは〈他者への関係〉のうちに存在する。
それが僕たちの前提。

他者との関係、でない点には注意を払っておいてもいいだろう。
ここで〈他者への関係〉といわれていることには、単なる対人関係以上のものが含まれている。
誰かの方を向いているだけでは、まだその相手との関係は開始されていないけれども、たしかに、関係の始まりは予感されている。〈他者への存在〉とは、まだ相手からの応答はなされずに、ひとり待っているような状態さえ含みこまれている。

『二つの同時代史』 大岡昇平・埴谷雄高

二つの同時代史 (岩波現代文庫)

二つの同時代史 (岩波現代文庫)

ニコニコ大百科によれば、「w」が「ワラ」という読み方を獲得したのはなんと1996年ごろのことだという。10年ほど前大学に通っていた私はきわめて新しい日本語に出会った気がしていたものだったけれど、全然。使い古された表現だったわけだ。私の驚きは、「新しさ」ではなく「目新しさ」に向けられていたということになる。

しかし、本当に新しいものに出会うことは難しいし、さらにそれを評価することは尚一層難しい、とつくづく感じる。たとえ新しいものに出会っても、それを「これは新しいぞ…!」と受け止める感性を身に着けるためには相当な研鑽が必要なのではないか、としか思えない。

ところで、本書はこんな本。

大岡昇平(一九〇九-一九八八)と埴谷雄高(一九〇九-一九九七)による『二つの同時代史』は、雑誌「世界」一九八二年一月号から八三年十二月号まで、二十四回にわたって連載された対談である。(589頁)

つまるところ古希を超えた老人による文学対談なのだが、老人とはこんなにおしゃべりなのか!といまさらながら驚かされる。

老境に達した小林秀雄が講演の中で「最近私は黙ってる人をえらいと思うようになったんです」といったことを述べていたことの意味がようやくわかった気がする。老人とはしゃべりまくる生きものであり、だからこそ、「黙っている」という自制・つつしみを含んだありようは尊いものだといえる。小林が言っているのはそういうことではないか。小林秀雄は老いてもなお小林秀雄であったのだ。

ともかく生き生きと内容のあることをしゃべりまくる老人二人。最高である。
こんな老いを迎えられるのなら若いうちに苦労しとかなきゃ…ってなる。
何より、こんなに暖かい「(笑)」を見たのは久しぶりである。この老人たちが繰り出す(笑)はあたたかい。こういうあたたかい(笑)がネットの海にも広がって行ってくれることを祈る。