ココロから魂へ。パワー!

五輪が終わったせいか「夢を追う旅人」をテレビであまり聞かなくなりましたね。
野音も近づいているので、エレカシ熱を高めていきたい。チケットないけど。

木田元先生の「この本を読むために―訳者あとがきに代えて」からまとめ。

プラトン…本名ではなく、本名はアリストクレス
     ソクラテスとは41歳の差
     プラトンの生まれる3年前(前431)ペロポネソス戦争始まる

ペロポネソス戦争アテナイ中心のデロス同盟という組合があったが、アテナイが横暴なのでデロス同盟を脱退するポリスが出る
         それらがスパルタをたよったので対立深まり、戦争に
         最終的にアテナイ敗北


メロス島事件…ペロポネソス戦争中の事件
       アテナイ軍、メロス島(スパルタの植民都市)に侵攻
       アテナイ軍、メロス島の青年男子を全員死刑に。婦女・子供は全員奴隷に。


三十人政権…ペロポネソス戦争アテナイでスパルタ占領下作られた寡頭政権
      内乱おこる


ソクラテス裁判…ソクラテスはペロ戦や内乱にかかわった人の師匠だったことから責任を追及された
        当時、民主主義再建の推進役だったソフィストを論破しまくって不評を買う
        →寡頭政治支持者とみなされる
        →そんなこともあり、結局死刑になる


ソクラテス死後のプラトン


29歳~ 初期対話篇でソクラテスを弁護
38歳~ 地中海世界を旅行(エジプト・キュレネなど)←ピュタゴラス教団に長く滞在
41歳~ アカデメイア創立、教育・執筆活動


イデア
ギリシア語の「idein」(見る)という動詞から派生。
三角形のイデア
魂の眼で見ている、理性(ヌース)によって洞察している
→このことを「想起(アナムネーシス)」という。イデア界のことを思い出している。


英語のidea…「観念」という意味が強くなっている
      もともとはそんな意味はないので、ギリシア語イデアを英訳するときは「form」をあてる。


現世とイデア
この世界…個々の事物は時間のなかで生成消滅する=絶えず変化する→イデアの影に過ぎない世界
イデア界…永遠不滅、不変化のイデアだけからなる別の世界→こっちが真の実在


てきとうなまとめをしてみました。
ブラックバーンプラトンの『国家』』245頁から256頁のおおまかな内容です。

高校倫理の教科書でもおなじみのワードも出てきてますね。

とりあえず、このあとに控えている鷲田清一先生の「プラトンの呪縛」を読んだうえで本編入って行こう…。

そなたたちは勇気を持っているか、おお、わたしの兄弟たちよ?

冷ややかな魂の持ち主たち、ラバたち、盲人たち、酔った者たちのことを、わたしは、胆力があるとは言わない。胆力があるとは、恐怖を知っていて、しかも恐怖を屈服させる者のことだ、深淵を見る者、しかも誇りをもって見る者のことだ。『ツァラトゥストラ

いつしかSummer Sonicも終わりました。
Weezer、California Kidsの日本語バージョン披露という困惑の展開だったみたいで、その場に居合わせてみんなと顔を見合わせたかった勢。
RadioheadはCreep含め素敵なコンサートになったようで何よりです。あの大合唱!加わりたかった。やっぱりライブは幸せな気持ちになれるやつがいいですね。

ささやかな幸せを

エレカシの2枚目。本当にやばい。

自宅にて→待つ男。

このコンボにうちのめされる。

怒りだろうか。少し違う。届かなさに打ち震える気持ち。そんな感じ。

『憂鬱なる党派』高橋和巳


こんばんは。

とりあえず『憂鬱なる党派』高橋和巳読んでます。

最初はすっごい暗いなって感じですけど、徐々に暗順応するというか。
ま、話も次第に加速していく感じです。面白いです。

今年30歳になりますが、このタイミングでこの本に出合えて、たぶん、良かったです。
いま現在、未来を思い描くことができなくてくっそへこんでますが、そういうとこも見つめる勇気をもらえそうです。

何年か前に『悲の器』読んで、すごいなーと思ってましたけど、これもすごい。骨太?

さっきちらっと読んだ巻末解説にドストエフスキーと並べて高橋和巳、っていうエピソードが紹介されてましたが、禿同です!会話も長い。

第八章中なんですが、会話がすごい『歎異抄』。
千人殺せだの、無知な輩に丁寧に教えてやれだの、だまされても後悔なんかしないだの・・・これってもう歎異抄ですよね?

学生運動してる人って親鸞道元読んでたんだなあ…。

あいかわらず雨が続いて、しょんぼりな日々でございます。
皆さまいかがお過ごしでしょう。

1日1章、9日間完成!という『差異と隔たり』再読のこころみは容易に打ち砕かれ。
とはいえ、ちょっとずつ読んでいます。

今日は第2部、第1章「他性の諸相」ですね。読んでおります。

といっても、別に何事かを論じるわけではないです。

ひとはいずれにせよ、みずからの身体の細部について、明示的にはほとんどなにも知ることがない。――このことは、しかもおそらく、顕在的な知によってそもそものりこえることが不可能なことがらである。たとえば、解剖学や医学にかんする詳細な知識が、いま現にはたらいているじぶんの身体についての非―知という次元を帳消しにするわけではない。どのような知が、身体をめぐってじじつ可能であるにしても、ひとはそうした知にもとづいて身体の細部を作動させることはできないからである。

町田康の「きれぎれ」の終わりを合わせて。

でも外見上、おれは、うまく歩いている。おれは外見上は普通に歩いているように見えているのだ。

本当に自分がうまく歩けているかなんて、ほんとうのところはわからない。あえてそういってみせるとき、ひとは自らの平常を疑っているにちがいない。おれは本当はうまく歩けていないかもしれない。でも、歩いている…いや、歩いていくんだっていう強がりを示す。

人は自分がいまどんな表情でいるかさえ知ることはできない。フィードバックされない情報をひたすら発信しながら突っ走る。<顔>が裸形であるとはそういうことだ。自分の本当の気持ちの表出は、外的な表現を通じてのみ現実化されるし、しかも、それは自分にはわからないんだ。だから誰かに教えてもらわないといけない。

現存在はそのつどじぶんの可能性なのであり、じぶんの可能性を目のまえにあるものとしてただ属性のようなかたちで「もっている」のではない。

「存在」はいつもそこにあるにもかかわらず、いつだってわたしたちのことばの上をすべっていってしまう。
なぜなら、わたしたちは存在しているから。

わたしは、あなたのことを見つめたり、あるいはあなたに呼び掛けたりすることができるけれど、あなたのことはわからない。わたしはわたしで、あなたはあなた。そして、いまのわたしは、たくさんあった可能性、わたしのありようのなかで、どういうわけか、いまあるわたしに過ぎない。

これがわたしの本当の姿?

本当のわたしかもしれないし、違うのかもしれない。

それは「存在」が決めることで、わたしたちの話題には上らない。

まず私はまだしたことがないことをしたいという漠然とした結論に達する。

絶対、サマソニでCalifornia Kids合唱したい。
もちろん大阪で!

こんばんは。

舞城王太郎の最高傑作は何かと言われれば、ちょっと悩んだふりをしてから「真夜中のブラブラ蜂」と答えようと心の中で準備しています。

「あなたはこう」と決めつけたい。

人は、相手に向かって「あなたはこうあるべき」とか言っちゃったりするけれど、それは、「あなたが私の理解の範疇に収まっていてほしい」という願いを、ちょっと曲げて表現しているに過ぎないのかもしれない。好きだから、大切だから、あなたのことをわかりたい・・・!って思うけど、その気持ちはちょっとしたことで、「あなたはかくあるべきだ」という決めつけへと転化する。ある意味、あなたのことをわかりたいっていう欲望が堕落しちゃってる。わかりたいのなら、焦るべきじゃないんだろう。わからないからわかりたい、でもわかった気になって決めつけちゃうのは、ちょっと違う。

まるで予定説みたい。プロテスタントの信者は、自分が神に愛されているか知りたいけど、わからない。だから、神に愛されている人はこうであるはずだ、という信念のもとに身清い生活に勤しむ。ある意味では、これは転倒なのだ。本当は分かりっこないことをわかったことにしてる。

「真夜中のブラブラ蜂」はこういうことを私に考えさせてくれました。